EA-3B/TA-3B Page-3
1976年から厚木基地で写真を撮り始めた私にとって、A-3スカイウォリアー系統の艦載ジェット爆撃機は既にみる事ができない過去の存在であった。1960年代から軍用機の撮影をされていた先輩方の昔話を聞く事だけで、見る事は出来なかったA-3双発艦上爆撃機は、ソ連への様々な核攻撃の方法の一つとして、空母からの核攻撃を前提に開発された機体である。戦後間もない頃の核運搬手段は空軍の戦略爆撃機しかなかったからである。海軍当局は太平洋戦争当時の空母ホーネットによるB-25爆撃機を使った東京空襲をイメージしていたのだ。もちろん目標はソ連の各都市であるが、そのため開発されたノースアメリカン社製のA3D-1は、1956年から配備を開始している。しかし、核弾頭の小型化によりICBM/SLBMの開発も進み、この双発の艦載ジェット機は爆撃機としての役割を負えることになる。全長が27mにもなる大型機を海軍は電子機器を満載した電子戦用機として転用することとし、VQ-1にも配属が決まった。私の世代が厚木で見る事ができたのは、正に電子戦用機としてのEA-3Bスカイウォリアーだった。
↑ VQ-1のTA-3Bが尾翼に大きな蝙蝠を入れていた時期のマーキングであるが、複数のSNSと某模型メーカーの塗装資料を参考とした。ただ尾翼の帯がこのような赤であった機体はカラー写真では確認できなかった。確かに胴体の帯と尾翼に青い帯が入ったTA-3Bは1974年頃存在していたが、赤い帯の機体は、マーキングの時期や詳細な色合いが不明である。
↑ 同隊後部に書かれたビューアルナンバーは全く読み取れなかったので”PR-01”としか判らないが、VQ-1所属のEA-3B。1976年にはPR-01/02は、結構厚木基地で見かける事が多かった。資料によればこの時期の”PR01”は、Bu.No.146450 らしい。
↑ VQ-1の電子戦用機EA-3Bは、当時厚木基地をベースに活動していたので、厚木に写真を撮りに行けば、大抵は撮れる被写体だったが、外形的に固体を識別する手段が、前述の通り機首のModexしかなかった。胴体後部に小さくビューアル・ナンバーが書かれていたが、当時の私の腕と、白黒フィルムの解像度からして、よっぽど部分接写でもしない限り読み取れるものではなかった。それより全体を綺麗に撮るので精一杯だったのだ。この”PR-02”は、Bu.No.146451らしい。
↑ 厚木基地へ通い始めた1976年頃は、カラフルな海軍機を撮るのに未だコダック社のネガカラーフィルムを使っていた。今やフィルムからは殆ど写真を再現できなくなったが、上の”PR-10”のEA-3Bなど、一度しか撮影できなかった機体も多かったのである。この機体は後にクラッシュして失われたEA-3B/Bu.No.144854かもしれない。
↑ こちらもVQ-1のEA-3Bでは珍しく、USS MIDWAY(CV-41 空母ミッドウェイ)の表記があり、CVW-5の記載もある。Bu.No.142671らしいが、確認はできなかった。
↑ 上の写真と撮影時期が前後しているかもしれないが、1976年に厚木基地のお墓から撮影したVQ-1のEA-3B/PR-07 ビューアルナンバーはBu.No.144849 だと考えられる。
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↑ 1976年にアメリカ建国200周年の記念塗装を施されたVQ-1/PR-00/Bu.No.144860。帯はトリコロールの3色、帯の上部分は”76”の文字が書かれたリバティ・ベルが記入されていた。この機体にはA-3爆撃機時代の尾部銃座の名残が残っていたのも特徴だった。
↑ 当時厚木基地で見かけるA-3の中で、唯一胴体に3色の帯を付け、機首の形が違うA-3が存在した。これが、アメリカ建国200周年の記念塗装をしたTA-3B/PR-00/Bu.No.144860
だったのだ。胴体の帯は、赤/白/青で自由の鐘が描いてあった。
↑ 1年後にはTA-3Bは、建国200周年の帯は無くなり、鼻が白く変わり、ビューアルナンバーが尾翼に復活していた。この機体1978年には鼻が再び黒く変わり、尾翼の”PR"の下に小さなVQ-1のマークが入った。
↑ 1976年 厚木基地R/W19で離陸しようとするVQ-1のPR-007/002の2機のEA-3B。後方に付くPR-002は、この時期時々見られるようになった空母名が入っている。空母名が入っているだけで、被写体の価値がぐっと上昇する感じがあったが、この時はPR-002にだけUSS CORALSEAと書かれていた記憶である。